よく分からない日記

モヤモヤを置いていくところ/修士一年

セラピーとは何なのか

最近、カウンセリングのトレーニングが始まった。実際に同じ院生同士でカウンセリングのトレーニングをしていると、私がやっている「今これ」は果たしてセラピーなのかという気になる。またそれを全て逐語に起こしスーパーヴィジョンに臨み、先生がおっしゃられている事を聞いていると、セラピーとは何なのかと思わされる。

 

セラピストが持つ特権性

言うまでもない事だが、セラピストは特権性を持っている。それは、クライエントの心のわだかまりを解くために、「突っ込んだことを聞く権利」を持っている事だ。家族や友人、ないし恋人との込み入った話を聞きながら、普通の人は聞けないような事をセラピストは一応聞くことが出来る(必要があれば)。

そして何より、クライエントは自分の事を喋れば良いが、セラピストは自分の事を話してはならない。面接の場において、クライエントが提供している情報量を100とすれば、セラピストが出す情報は0に近い。

では聞きっぱなしで良いのかと言われれば、そんな事はない。そこで、臨床心理学徒なら誰しもが知るタームである、『共感的理解』が出てくるのである。これが難しい。

共感的理解の難しさ

レーニングの中でクライエント(役)の子の話を聞いていて、私は様々な事を思う。それは興味深いというものもあれば、何でそんな事で悩んでんだろうというものもあるし、ぶっちゃけ興味ないなというのもある。これらの感情を日常会話では一応表出したい放題だ。つまんねーなと思ったらその場でつまんねーなと言う事は幾らでも可能だ(嫌われるが)。

でも面接の場でつまんねーなと言う事は絶対に出来ない。まあ実際の臨床の場になったら、それどころではない話が巻き起こるだろうが、何にしたって心がける事には、共感的理解が先に立つ。つまりどういう事をセラピスト個人が考えていようが、セラピストは共感的理解を目指す必要がある。これが難しい。

単純に新米の私としては、自分の感情と面接の技法としての共感的理解の区別が難しい。SVの先生からは、面接空間ではクライエントの世界を押し広げる事が重要であって、セラピストの考えに端を発する発言ではクライエントの自己変容は起こらないと言われた。

これを咀嚼することが難しい。先生の言わんとすることはおぼろげながらも分かるが、私自身の理解と、先生の言わんとする(私に伝えたい)事の間がぽっかりと開いているような感覚を覚える。ジョイントが無いというか。

言葉の奥を考えること

この前、とんでもないドキュメンタリーを見た(後半ずっと泣いていた)。

www.nhk.jpETV特集の「鍵をあける 虐待からの再出発」というものだ。概要は省くが、このドキュメンタリーの中で、重度の強度行動障害の男性Aさんが出てくる。中井やまゆりの利用者というか入居者の訳だが、彼は当初非常に状態が悪く、閉ざされた暗い部屋の中に四六時中閉じ込められ(風呂・トイレも恐らく備え付けの部屋である)、日に数度ご飯の時間がある訳だが、その時ですらほぼ猛獣と同じような扱いを受ける。職員は食事を彼の部屋の前に置き、離れた場所からそれを見守る。そして彼は職員が見守る中自分で扉をあけ、食事をとり、部屋の中で食べ終わったらそれを職員を回収する、というフローが、彼がその施設で唯一持たされた社会的関わりだった訳だ(兎に角とんでもないドキュメンタリーなので本当に見て欲しい)。

その中で県の改革プログラムとして、番組を見る限りは神としか思えない凄腕ケアラー(民間の施設長)が出てきて、彼(Aさん)とのかかわり方を劇的に変え、そして彼自身をも変えていくという一幕がある。

 

ここからが私の言いたい事なのだが、最初ケアラーが彼と会った時に、彼は激しく暴れた。成人男性が四人がかりで彼を地面に押さえつけた(こう書けばどれくらい状況が凄まじいか分かるだろう)。その時にケアラーは、顔をしかめて呻く彼を地面に押さえつけながら、「君に対して(施設が)今までしたことを申し訳なく思っている。もう誰も君を見捨てない、俺と一緒にこれから頑張って行こう」といった事を言うシーンがある(壮絶である)。

そしてその後番組の終盤で、Aさんとケアラーが面談(Aさんの今後について)した時、Aさんは、「何であの時俺の腕を押さえつけたのか」と言った。流石のAさんも若干たじろぐような、そんな仕草を見せた後に、「君が本当に暴れたいようには思えなかったからだ」というような事を言う。(うろ覚えなので所々違ったらごめん)

 

私はここに、ケアおよびセラピーの神髄を感じる。

つまり、ケアラーさんはAさんの暴れるという行為の奥側に、「理解して欲しい」「淋しい」「怖い」「つらい」「不安だ」というような、本当に根本的なAさんの主張や思いがあると思っていたのだ。

この事をAさん自身が自覚していたかは私には分からないし、そもそも外野は測りようがない。だからもしかするとケアラーの大いなる思い違いである可能性はある。

だが、正直なところ、私は何の根拠もなく、ケアラーが口にしている事は真実であると感じる。もしAさん自身が口で否定していたとしても(その場で彼はケアラーの言葉を聞いてじっと黙っていた)、それは真実だったのではないかという気がする。私が思っている事をもっと自由に表現すれば、私はそれが分かってしまう

 

また別の話を出す。とある講演会で、「私の知り合いのピアが、心理面接の場で、『今とてもしんどくて、次の面接に行くのもしんどい』と言ったら心理士さんから、『それなら来週の面接予約は一旦キャンセルにして、また元気になったら取るようにしましょうか』と言われて、ショックだったと話していた。心理士さんはクライエントの話している言葉の裏側を理解する必要があるから大変だと思う」という話を聞いたことがある。

この話は私の中で非常に印象深い。これは、私もクライエントだったことがあるため、非常によく分かる話だった。ところが教員は、いまいちな反応をされていた。

 

暴れるという行為の裏側に「怖い」「理解して欲しい」という思いがある(と思われる)ように、或いは『次の面接に行くのもしんどい』と言いながら自分を引き留めて欲しいという思いがあるように、人の言葉や行動はしばしば裏腹なものを呈する。そしてその奥側にあるもの、ともするとクライエントも自覚していないようなところが、一番重要だったりもする。

言葉の裏側と共感的理解の境界線

ここでSVの話に戻る訳だが、「クライエントの世界を押し広げる」ことがセラピーの目的だと私は言われた。確かにその通りだと思う。だがその行為は、そうした言葉の裏側に気付けるのだろうかと私は思った。クライエントの世界を広げる行為と、言葉の裏側を理解することは、私のなかで共存しない。

言葉の裏側を理解する行為は、私にとっては、「ガチンコ」という言葉と結びつく(笑いどころである)。岡本夏生さんかよと思うかもしれない(笑いどころ2)。

そうではなくて、セラピストの「ガチンコ」とクライエントの「ガチンコ」がぶつかりあって初めて、セラピストはクライエントの言葉の裏側を理解できるようになるのではないかという気がする。

「鍵をあける」の中で、ケアラーは複数人でAさんを床に押さえつけながら、正しくガチンコでクライエントに向かい合っていた。また『次の面接に行くのもしんどい』と言ったクライエントは、ある種賭けをしているかのようなガチンコ状態であっただろう(人によっては試し行動と言いたくなるだろう)。

共感的理解は、伝え返しが主な仕事だと私は教わった。その行為の中でセラピストは黒子になるのかなと私は感じた。クライエントが何をどう考えているかを自覚していくための、言わば踏み台というか。その伝え返しの中で、果たしてガチンコの状態は生まれるのだろうかと思った。自分でも上手く言葉に出来ないのだが。何処か、目の前の人に真剣に向き合わざるを得ない瞬間が来るのではないかと私は思う。

面接の場でセラピストはいつも真剣でいろとかそういう話でなくって、たとえば皆藤先生が本で書いていたような、母を今から〇しに行きますと言ったクライエントを前に静かに泣くといった(凄まじすぎる話だが)、全ての技法とかそういうのをすっ飛ばした、妥当性も信頼性も無い世界でただ「ガチンコ」になるという事がセラピーで重要になってくるのではないかなと私は思った。