よく分からない日記

モヤモヤを置いていくところ/修士一年

『分解の哲学』感想

『分解の哲学』,藤原辰史,(2019)を読んだ。

book.asahi.com

彼のことは正直よく知らないのだが、『切なさの歴史学』というせかいしそうの連載? がTwitterで小さくバズっていて、それを読んで、これは面白い人だろうなと思って、刊行年のサントリー学芸賞を取っている彼の著作を読んでみた。

web.sekaishisosha.jp

感想

文章表現が上手い学者というのは貴重な存在であり、ぶっちゃけそれが(人気)学者として世の中に受け入れられるための重要な要素であるように個人的には思える(福岡伸一さん,東畑開人さん)。

文章表現が上手い事の何が良いかと言えば、七難を隠せる事にある。論の運びがもたついていても、妥当性に欠けた主張でも、文章表現が流麗であると、何となくカッコいいと思えてしまう。それを本作で私は思った。

この手の学者さんは実のところ、読者としては一番気を付けるべき存在であると思う。明らかに間違っている事を書いているのならば読んでいるうちに気づく。然し、新奇性のある事を言っていて、且つ語りたいことのcontextを踏まえた文章は、読ませる力がある。そして各章の最後は、ハッとするような文章表現(学術的にはお飾りなんですけれども)で締められる。そんな文を読んでいると、内容を精査する目・頭が、ともするとうっとりと、恍惚としてしまいそうになる。

修士課程に在籍していて思うのは、この観点の無い同学が案外多いという事だ。これから修論を書くという人に限って、テクストのすべてが正しいと思っていましたと言ったりする。それはさすがに違うんじゃないかなと思う。言うて、私もこの本のすべてを理解しきった訳じゃありませんけど。。。

 

P.84,完成され過ぎない積み木というエピソードが出てくる。フレーベルという教育哲学者が19世紀に子どもの玩具として積み木を発明したらしく、そこから積み木の設計理念みたいな話になる。そこで、「完成され過ぎない」ことが大事なのだという話が出てくる。

これ自体は非常に示唆的で、自分自身なるほどと思って読むのだが、その後に、「現在の遊びであるテレビゲームやプラモデルはその対極にあり、全てが製作者によってお膳立てされ過ぎていて、子どもの目の前に広がるイメージが完成され過ぎている」といったような記述が出てくる。これは飛躍し過ぎだなと思う。それってあなたの感想ですよねみたいな……これを証明するなら、子供たちに対して、テレビゲーム群と積み木群に分けたうえで創造性に関する尺度を取って縦断的に調査する必要があるというか……まあこれは私が死ぬほどゲームが好きだから思う事なんだが……。近い事やってて似たような結果になっている論文はありますけど……。

小中学生の自由時間の活動が心理社会的適応に及ぼす影響に関する縦断的検証

 

contextを踏まえて、更に妥当性/信頼性がある事。加えて、自分の語りたいことの軸を持つこと。これがアカデミックな文章に求められる要素なのではないかと、本書を読んで思った。