よく分からない日記

モヤモヤを置いていくところ/修士一年

就活進捗

・はじめに

現在、私は臨床心理の修士一年に在籍し、そして心理職公務員を目指している。頭の中の情報を整理し、今自分が何が出来ていて何が出来ていないのかを言語化したいと思うので、それについて書いていく。

・受験先

1. 国総 院卒者試験(人間科学区分)

2. 家庭裁判所調査官補

3. 法務技官

4. 地上心理職

・志望先についての留意事項

1. 国総 院卒者試験(人間科学区分)

現在志望先として、法務省の某外局と某特任大臣がいっぱいいる所を志望している(?) 某功労省については説明会に参加した時に、あまり自分と合うという感じがしなかったので保留している。

院卒区分は、数的処理と二次の記述がモノを言うのではないかと思っている。事実記述は結構難しい。試験が三月中旬と激早なので、着実且つ効率の良い学習を進め、且つ官庁訪問で他の法律や経済区分の方とも互角に戦えるくらいの人物試験能力(?)も身につけておかねばならない。

2. 家庭裁判所調査官補

今まで説明会やWSに三回ほど参加したが、その時ごとに結構印象が異なる。ある意味多様な職員さんがいるという事に繋がるだろう。院卒・学部卒ともに倍率が高すぎて受ける前からかなりビビってしまっているのが正直なところ。でも直近で参加した説明会では、たかだか説明とは言え一番手応えを感じた。このまま参加し続ければ、多分職員の方に私の顔と名前を覚えられるだろう(覚えられたところで選考に何も影響しないだろうが)。

ここを第一志望とする人は受験者の中で多く、そういう人と比べて自分の志望動機はあまり強いものとならない。実はこの点が結構不安材料であるので、人物試験対策は今の段階から着実にしておくべきだと考えている。だがやはり国総ほど詰めてやる必要も無いのではないかと現段階で考えている。官庁訪問は難易度として比べようもないだろう。

二次の記述は国総ほど難しくない。やはり一次試験を突破できるかどうかにかかっている気がする。

3. 法務技官,4. 地上心理職

現段階で何も調べられていないが、より業務内容が狭まる領域になる。特に地上は殆ど児相勤務となるであろうため、正直なったとて就職してからのギャップがありそうではある。どちらにせよ受ける事にはなるだろうが、要検討である。

・試験勉強

・これまでの成果

・数的処理

七月頃からぼちぼち勉強を始め、現行配信されている講座動画は全て視聴している。遅まきながら問題演習を九月後半より始め、十一月の頭には一周する予定だ。図形分野に関してはこれから動画が配信されるため、そこをどうやって両立させるか検討する必要がある。

問題演習をした感覚、苦手な分野とそうでない分野の差が激しく、苦手分野に関しては丁寧に復習する必要があるのを感じている。逆に特異な分野でも演習にかなり時間がかかったりしているため、もう少しスピードアップを意識していければ良いだろう。というかぶっちゃけ一次合格のラインを知らないのだが、七割取れたら良いと勝手に思っており、そのラインを目指している。

・心理科目

現行配信されている講座動画は全て視聴している。院試で覚えた知識と、覚えていない知識が混在しており、更に院試で覚えたものに関しても記憶がすっぽ抜けているところが多くあるため、数的処理と同じレベルで苦戦している。問題演習(シケシン)を先週から始めたが、スコアがかなり悪く結構問題意識を持っている。一般分野・統計分野・社会心理学分野が十月に一周し終わる予定。五冊分の一周が終わるのは恐らく十一月。

・これからの課題

数的処理と心理科目に共通する事なのだが、兎に角復習量が足りない。問題演習をやりっぱなしで終わる事が多く、どうしたものかと思っている。正直なところ問題演習を終わらせた段階で結構疲れてしまっていて復習まで手が回らんよ、という感じになってしまっている。自分で設定したノルマに追われるあまり、質を伴う学習が出来ていないのだと感じる。

更に心理科目に関しては新規の知識を改めて覚える作業が必要なのだが、その際まとめノートを作るのか或いはそうでないのかでかなり迷っている。講座で使用しているレジュメは情報量が多過ぎて、取捨選択の”捨”の部分が見ていて煩わしくなるのでそこに書き込むのはなあ…という気がしている。かといってシケシンの解説だけだと参考書としては情報量が少ない。

・行う事とその方向性

・数的処理

まず自分の一日の勉強スケジュールの中に復習のための時間を組み込んでおく。また疲れてしまう事に関しては、まず朝からOW2をやらないという対策が講じられる。その上、現状一週間のスケジューリングのうちに一日バッファを組み込んでいるが、必要に応じてバッファをもう少し取り入れる事を検討してみたい。取り敢えず一週間朝OW2断ちを導入し様子を見て、それでも出来そうになければ改めてスケジューリングを行う。

・心理科目

取り敢えず院試勉強時代に使っていたテキストを再利用してみようかなと思う。ただそのテキストに載っていない事がかなり多くあるので、それに関しては書き込んだり、ないし自分でルーズリーフにまとめようと思う(院試の勉強の延長戦)。

実験の詳細まで覚える必要があるのはかなり骨が折れる。最初のうちから完ぺきに覚えようとするのではなく、まずは提唱者-概念の定義-実験のポイントの三つを覚えておき、それらが何となく把握できるようになったら実験の詳細を覚えていくという流れで良いのかなと今は思っている。

・面接対策

・人物試験対策

今のままだとガクチカがほぼ無いという体たらくになるので、それもかねて年内にはケースを一つ持ちたいと思う。あとは今までプレゼンや説明会等に参加してきて、成果もあるが反省点も多くある。そうした反省点を書き留めたノートを作りたい(と三週間くらい前から思っている)。ノートを作る事でそうした反省点を踏まえて、プレゼンや説明会一回ごとにステップアップしていきたいと考えている。自分に何が出来て、それを(その職場で)どう活かせるのか、という視点で人物試験対策は頑張っていこうと思っている。

・志望先研究

なかなか普段の試験勉強や大学の講義と両立させるのは至難の業だが、セミナーにちょっとずつ参加していければなとは思っている。

 

セラピーとは何なのか

最近、カウンセリングのトレーニングが始まった。実際に同じ院生同士でカウンセリングのトレーニングをしていると、私がやっている「今これ」は果たしてセラピーなのかという気になる。またそれを全て逐語に起こしスーパーヴィジョンに臨み、先生がおっしゃられている事を聞いていると、セラピーとは何なのかと思わされる。

 

セラピストが持つ特権性

言うまでもない事だが、セラピストは特権性を持っている。それは、クライエントの心のわだかまりを解くために、「突っ込んだことを聞く権利」を持っている事だ。家族や友人、ないし恋人との込み入った話を聞きながら、普通の人は聞けないような事をセラピストは一応聞くことが出来る(必要があれば)。

そして何より、クライエントは自分の事を喋れば良いが、セラピストは自分の事を話してはならない。面接の場において、クライエントが提供している情報量を100とすれば、セラピストが出す情報は0に近い。

では聞きっぱなしで良いのかと言われれば、そんな事はない。そこで、臨床心理学徒なら誰しもが知るタームである、『共感的理解』が出てくるのである。これが難しい。

共感的理解の難しさ

レーニングの中でクライエント(役)の子の話を聞いていて、私は様々な事を思う。それは興味深いというものもあれば、何でそんな事で悩んでんだろうというものもあるし、ぶっちゃけ興味ないなというのもある。これらの感情を日常会話では一応表出したい放題だ。つまんねーなと思ったらその場でつまんねーなと言う事は幾らでも可能だ(嫌われるが)。

でも面接の場でつまんねーなと言う事は絶対に出来ない。まあ実際の臨床の場になったら、それどころではない話が巻き起こるだろうが、何にしたって心がける事には、共感的理解が先に立つ。つまりどういう事をセラピスト個人が考えていようが、セラピストは共感的理解を目指す必要がある。これが難しい。

単純に新米の私としては、自分の感情と面接の技法としての共感的理解の区別が難しい。SVの先生からは、面接空間ではクライエントの世界を押し広げる事が重要であって、セラピストの考えに端を発する発言ではクライエントの自己変容は起こらないと言われた。

これを咀嚼することが難しい。先生の言わんとすることはおぼろげながらも分かるが、私自身の理解と、先生の言わんとする(私に伝えたい)事の間がぽっかりと開いているような感覚を覚える。ジョイントが無いというか。

言葉の奥を考えること

この前、とんでもないドキュメンタリーを見た(後半ずっと泣いていた)。

www.nhk.jpETV特集の「鍵をあける 虐待からの再出発」というものだ。概要は省くが、このドキュメンタリーの中で、重度の強度行動障害の男性Aさんが出てくる。中井やまゆりの利用者というか入居者の訳だが、彼は当初非常に状態が悪く、閉ざされた暗い部屋の中に四六時中閉じ込められ(風呂・トイレも恐らく備え付けの部屋である)、日に数度ご飯の時間がある訳だが、その時ですらほぼ猛獣と同じような扱いを受ける。職員は食事を彼の部屋の前に置き、離れた場所からそれを見守る。そして彼は職員が見守る中自分で扉をあけ、食事をとり、部屋の中で食べ終わったらそれを職員を回収する、というフローが、彼がその施設で唯一持たされた社会的関わりだった訳だ(兎に角とんでもないドキュメンタリーなので本当に見て欲しい)。

その中で県の改革プログラムとして、番組を見る限りは神としか思えない凄腕ケアラー(民間の施設長)が出てきて、彼(Aさん)とのかかわり方を劇的に変え、そして彼自身をも変えていくという一幕がある。

 

ここからが私の言いたい事なのだが、最初ケアラーが彼と会った時に、彼は激しく暴れた。成人男性が四人がかりで彼を地面に押さえつけた(こう書けばどれくらい状況が凄まじいか分かるだろう)。その時にケアラーは、顔をしかめて呻く彼を地面に押さえつけながら、「君に対して(施設が)今までしたことを申し訳なく思っている。もう誰も君を見捨てない、俺と一緒にこれから頑張って行こう」といった事を言うシーンがある(壮絶である)。

そしてその後番組の終盤で、Aさんとケアラーが面談(Aさんの今後について)した時、Aさんは、「何であの時俺の腕を押さえつけたのか」と言った。流石のAさんも若干たじろぐような、そんな仕草を見せた後に、「君が本当に暴れたいようには思えなかったからだ」というような事を言う。(うろ覚えなので所々違ったらごめん)

 

私はここに、ケアおよびセラピーの神髄を感じる。

つまり、ケアラーさんはAさんの暴れるという行為の奥側に、「理解して欲しい」「淋しい」「怖い」「つらい」「不安だ」というような、本当に根本的なAさんの主張や思いがあると思っていたのだ。

この事をAさん自身が自覚していたかは私には分からないし、そもそも外野は測りようがない。だからもしかするとケアラーの大いなる思い違いである可能性はある。

だが、正直なところ、私は何の根拠もなく、ケアラーが口にしている事は真実であると感じる。もしAさん自身が口で否定していたとしても(その場で彼はケアラーの言葉を聞いてじっと黙っていた)、それは真実だったのではないかという気がする。私が思っている事をもっと自由に表現すれば、私はそれが分かってしまう

 

また別の話を出す。とある講演会で、「私の知り合いのピアが、心理面接の場で、『今とてもしんどくて、次の面接に行くのもしんどい』と言ったら心理士さんから、『それなら来週の面接予約は一旦キャンセルにして、また元気になったら取るようにしましょうか』と言われて、ショックだったと話していた。心理士さんはクライエントの話している言葉の裏側を理解する必要があるから大変だと思う」という話を聞いたことがある。

この話は私の中で非常に印象深い。これは、私もクライエントだったことがあるため、非常によく分かる話だった。ところが教員は、いまいちな反応をされていた。

 

暴れるという行為の裏側に「怖い」「理解して欲しい」という思いがある(と思われる)ように、或いは『次の面接に行くのもしんどい』と言いながら自分を引き留めて欲しいという思いがあるように、人の言葉や行動はしばしば裏腹なものを呈する。そしてその奥側にあるもの、ともするとクライエントも自覚していないようなところが、一番重要だったりもする。

言葉の裏側と共感的理解の境界線

ここでSVの話に戻る訳だが、「クライエントの世界を押し広げる」ことがセラピーの目的だと私は言われた。確かにその通りだと思う。だがその行為は、そうした言葉の裏側に気付けるのだろうかと私は思った。クライエントの世界を広げる行為と、言葉の裏側を理解することは、私のなかで共存しない。

言葉の裏側を理解する行為は、私にとっては、「ガチンコ」という言葉と結びつく(笑いどころである)。岡本夏生さんかよと思うかもしれない(笑いどころ2)。

そうではなくて、セラピストの「ガチンコ」とクライエントの「ガチンコ」がぶつかりあって初めて、セラピストはクライエントの言葉の裏側を理解できるようになるのではないかという気がする。

「鍵をあける」の中で、ケアラーは複数人でAさんを床に押さえつけながら、正しくガチンコでクライエントに向かい合っていた。また『次の面接に行くのもしんどい』と言ったクライエントは、ある種賭けをしているかのようなガチンコ状態であっただろう(人によっては試し行動と言いたくなるだろう)。

共感的理解は、伝え返しが主な仕事だと私は教わった。その行為の中でセラピストは黒子になるのかなと私は感じた。クライエントが何をどう考えているかを自覚していくための、言わば踏み台というか。その伝え返しの中で、果たしてガチンコの状態は生まれるのだろうかと思った。自分でも上手く言葉に出来ないのだが。何処か、目の前の人に真剣に向き合わざるを得ない瞬間が来るのではないかと私は思う。

面接の場でセラピストはいつも真剣でいろとかそういう話でなくって、たとえば皆藤先生が本で書いていたような、母を今から〇しに行きますと言ったクライエントを前に静かに泣くといった(凄まじすぎる話だが)、全ての技法とかそういうのをすっ飛ばした、妥当性も信頼性も無い世界でただ「ガチンコ」になるという事がセラピーで重要になってくるのではないかなと私は思った。

『分解の哲学』感想

『分解の哲学』,藤原辰史,(2019)を読んだ。

book.asahi.com

彼のことは正直よく知らないのだが、『切なさの歴史学』というせかいしそうの連載? がTwitterで小さくバズっていて、それを読んで、これは面白い人だろうなと思って、刊行年のサントリー学芸賞を取っている彼の著作を読んでみた。

web.sekaishisosha.jp

感想

文章表現が上手い学者というのは貴重な存在であり、ぶっちゃけそれが(人気)学者として世の中に受け入れられるための重要な要素であるように個人的には思える(福岡伸一さん,東畑開人さん)。

文章表現が上手い事の何が良いかと言えば、七難を隠せる事にある。論の運びがもたついていても、妥当性に欠けた主張でも、文章表現が流麗であると、何となくカッコいいと思えてしまう。それを本作で私は思った。

この手の学者さんは実のところ、読者としては一番気を付けるべき存在であると思う。明らかに間違っている事を書いているのならば読んでいるうちに気づく。然し、新奇性のある事を言っていて、且つ語りたいことのcontextを踏まえた文章は、読ませる力がある。そして各章の最後は、ハッとするような文章表現(学術的にはお飾りなんですけれども)で締められる。そんな文を読んでいると、内容を精査する目・頭が、ともするとうっとりと、恍惚としてしまいそうになる。

修士課程に在籍していて思うのは、この観点の無い同学が案外多いという事だ。これから修論を書くという人に限って、テクストのすべてが正しいと思っていましたと言ったりする。それはさすがに違うんじゃないかなと思う。言うて、私もこの本のすべてを理解しきった訳じゃありませんけど。。。

 

P.84,完成され過ぎない積み木というエピソードが出てくる。フレーベルという教育哲学者が19世紀に子どもの玩具として積み木を発明したらしく、そこから積み木の設計理念みたいな話になる。そこで、「完成され過ぎない」ことが大事なのだという話が出てくる。

これ自体は非常に示唆的で、自分自身なるほどと思って読むのだが、その後に、「現在の遊びであるテレビゲームやプラモデルはその対極にあり、全てが製作者によってお膳立てされ過ぎていて、子どもの目の前に広がるイメージが完成され過ぎている」といったような記述が出てくる。これは飛躍し過ぎだなと思う。それってあなたの感想ですよねみたいな……これを証明するなら、子供たちに対して、テレビゲーム群と積み木群に分けたうえで創造性に関する尺度を取って縦断的に調査する必要があるというか……まあこれは私が死ぬほどゲームが好きだから思う事なんだが……。近い事やってて似たような結果になっている論文はありますけど……。

小中学生の自由時間の活動が心理社会的適応に及ぼす影響に関する縦断的検証

 

contextを踏まえて、更に妥当性/信頼性がある事。加えて、自分の語りたいことの軸を持つこと。これがアカデミックな文章に求められる要素なのではないかと、本書を読んで思った。